2.そう、確かに僕はいた。
高校2年になり、あおいの生活は少し変わった。朝七時には学校に着いて、教室の窓際、前から二番目の席に腰を下ろす。あおいの通う中高一貫校はスポーツや芸術を志す生徒のためのクラスがあり、出欠の管理や学力に関しては緩い。しかし、あおいはバレエダンサーを目指すことができなくなり、総合進学クラスに移動することになったため、教師から多くの課題を出されていたのだ。
だが、それはむしろあおいにとっては好都合だった。
「もう一回、初めから。」「なんで、こんなこともできないの?」
つい三か月前まであおいに向けられていた言葉たちは、五歳下の妹みどりに向くようになっていた。みどりは五歳からピアノを習っていて、来年音大付属の中学校を受験する。その試験と夏のコンクールに向けて、佐倉家では車を売り、空いたガレージを改造してピアノルームができていた。バレエはさすがに家ではできなかったから、近くのスタジオを借りて母と練習したりしていたが、今度は家でできるものだから厄介だ。母の叱咤の声を聞くと、恐怖心と少しの寂しさが浮かんでしまう。だから、課題が多い、勉強に追いつかなければいけない、という名目には助けられた。
早朝の教室には誰もいない。静まり返った部屋に音が差し込むのは七時十五分。
「おはようございます!」
野球部キャプテンに就任した太陽の声だ。
「今日もランニングから始めます!」「はい!」
この春から入部した十二歳の、声変わりしかけたしゃがれた返事がかわいらしい。そんな野球部の朝練を眺めるのが今の日課だ。そもそも、学校の中で顔と名前が一致する相手がいること自体が久しぶりだった。もちろん、陽の光の満ち満ちた世界の中心にいる太陽とは生きている世界が全然違う。それでも野球部の練習風景を見ていると、少しだけ世界の光に触れられたような気持になれて、気分が良かった。
「佐倉、ちょっと、保健室までいいかな。」
担任の理科教師が言う。気づけば、時計は八時を回っていた。保健室はあおいの教室から一番遠く、ホームルームまでに戻ってこれるか心配だったが、担任教師公認なら問題ないだろう。担任について保健室に着くと、じゃ、と担任はすぐ職員室の方へ戻っていった。
「佐倉さん、お母様にもお電話させてもらったんだけど…」
養護教諭の一言目はそれだった。お忙しかったのかしら、などと言葉を濁していたが、おおよそ『関係ないので。』くらいのことを言ってガチャンと切ったのだろう。
「大丈夫です。どういった用件でしたか?」
「先週の健康診断なんだけどね、まあ、これは昨年もそうだったとはいえ…」
あおいの体重のことだ。レッスンをしていたころ、どんなに節制しても切れなかった38kgを大きく下回っていた。レッスンを辞めたら太ると覚悟していたのに。それもそのはず、コンクールが終わったらバームクーヘンが食べたいとか揚げ物が食べたいとか色々思っていたのに、一切食指が向かないのだ。何を食べても砂を噛んでいるような、味はないのに不快感。おなかがすいたという感覚も既になく、むろん母親は何も気にしない。バレエをやっていたころは、口にするもの既に口を挟んできたのに。本当に母親の瞳に私が写っていないんだな、とあおいは思った。
「今のところ大丈夫です。バレエやってる子ならもっと細い子もいますし。ご心配ありがとうございます。」
「食事がきちんと摂れていないなら、精神的なものも考えなければいけないし、他の病気が潜伏しているかもしれないわ。必ず大きな病院を受診して。脚の方も、早く良くなってほしいし。」
その言葉に眉をひそめてしまった。良くなる?完治の道はないのに。
「わかりました。今度行っておきます。」
そういって立ち上がろうとするあおいを養護教諭がけん制する。そういった指導をしましたという証拠の書類があり、保健室の真ん中の丸テーブルで待つように言われた。奥の教諭席を離れると、脇のベッドに女の子が座っていた。
「あれ?佐倉さん?」
隣の席のソフトボール部の子だった。名前が思い出せない。
「あ、名前、まだ覚えてないよね。池田ミナっていうの。みんな、ミーナって呼んでるから。よろしく。」
「うん。」
「ごめん、ちょっと聞こえちゃった。」
「別に。」
沈黙。バレエスクールではプロを目指すクラスで、みんなピリピリしていたし、ライバル意識が強くて、仲良くするという感じではなかった。だから、同級生の女の子とどう話して良いかなど全く分からなかった。
「できたわ。必ず、これをもって病院を受診してね。あら、池田さん、ちょっと待っててね。」
養護教諭が封筒をあおいに手渡し、いそいそと奥へ戻る。あおいが保健室の戸を引こうとすると、
「ちょっと待って。これ、良かったら」
ミナがあおいの手に何かをうずめた。保健室を出てから手を開くと、大きなイチゴ味の飴があった。